No.113 生殖医療における医療機関の注意義務

質問

生殖医療を実施した医療機関が関係者からの同意取得に関して損害賠償を求められた事例があると聞きました。医療機関はどのような責任を問われたのでしょうか。

回答

子を持つという重大な決定は父となる者、母となる者の自由な意思に基づく合意のうえに成り立つものですから、生殖医療を実施するには医療行為として生殖医療を受ける者の意思が明確であり、かつその意思が生殖医療実施時に存在することが必要であると解されます。この同意の有無は、生物学上の父となる者と母となる者の婚姻関係の有無、生まれた子と父親との間の法律上の親子関係の形成の有無、嫡出性の有無といった点と関連して紛争の種となることがあります。医療機関が生殖医療実施前に被実施者の婚姻関係や、同意が真正なものであるかについてどのような調査確認をすべきかが問題となった裁判例を紹介します。

1 東京地裁平成25年7月19日判決

戸籍上婚姻関係にない丙と丁との間で乙医師のクリニックにおいて不妊治療として体外受精を行い、丁が妊娠し女児を出産しましたが、丙の戸籍上の妻である甲は婚姻生活の平和の維持の権利等を侵害されたものであり丁と乙による甲に対する共同不法行為が成立するとして不妊治療を実施した乙に対し損害賠償を請求したという事案です。

丙と甲は昭和52年に婚姻してから婚姻を継続していたところ、平成19年になって丙は自宅を出て丁と同居を始めました。同居開始後も丙は月に一度は自宅に帰り、甲に生活費として月に85万円を渡していたほか、甲丙間の子の結婚式には甲丙揃って出席しており、甲丙間で離婚の話をすることもありませんでした。平成21年から丙は丁と不妊治療のため乙を受診し、9回にわたり体外受精を実施したところ、丁は平成22年12月ころに体外受精により妊娠し、平成23年2月に女児を出産しました。

甲は、丙との婚姻共同生活の平和の維持の権利、利益を侵害されたとして、乙に対し損害賠償請求訴訟を提起しました。

裁判所は、生殖医療行為は不妊症の男女から求められて実施する重要な医療行為であり、これを実施した医師は原則として責任を問われることはないが、被実施者両名が婚姻関係になく他に配偶者がいる場合に、その配偶者の承諾なく生殖医療行為を実施することは、配偶者との関係では配偶者の権利を侵害する行為に加担するものといえ、配偶者に対する医師と被実施者の共同不法行為を構成し得るとしましたが、乙は甲丙間の婚姻については知らなかったのであり、日本不妊学会の見解では事実婚関係にある男女に対する本人同士の生殖細胞を用いた生殖医療行為を可能とすべきとされていても、これによる配偶者の権利侵害のおそれや身分関係の調査義務等についての記載はないこと、日本産科婦人科学会の見解から、体外受精の被実施者は婚姻している夫婦とされ、被実施者が夫婦であることを戸籍で確認することが望ましいとする記載が削除されたことなどを考慮すると、丙丁が乙を受診していた平成21年~22年当時、生殖医療を実施する医療機関において事実婚関係にある男女に対する生殖医療をすべきではないと考えられていたとはいえないし、医療機関において事実婚関係にある男女に対する生殖医療行為が配偶者としての権利を侵害する危険があることが認識されていたことや、その危険を回避するために被実施者に戸籍謄本等を提出させるなどして身分関係を確認する扱いが一般的に行われていたことを認めることはできないとして、乙に丙、丁の戸籍謄本を提出させるなどして身分関係を調査する義務があったとはいえないから、乙に過失は認められないとして甲の請求を棄却しました。

2 大阪地裁令和2年3月12日判決

別居中の妻Aが、夫Xの意思を確認せずに受精卵(胚)移植の方法により子を出産した後にAとXが離婚したところ、Xは自己決定権を侵害されたとして、AならびにAに胚移植をした医療法人Y1およびY1の理事長で実際に胚移植を行った医師Y2に対し不法行為に基づく損害賠償を請求したという事案です。

XとAは平成22年に婚姻し、平成25年9月にY1クリニックを初めて受診し、平成25年11月、平成26年2月、平成26年4月に「体外受精・顕微授精に関する同意書」、「卵子、受精卵(胚)の凍結保存に関する同意書」「凍結保存受精卵(胚)を用いる胚移植に関する同意書」にX、A各自日付を記入、署名押印しY1クリニックに提出し、Y1クリニックはそれぞれ採卵しました。平成26年4月10日、Xは精子を採取し、新鮮精子として体外受精に使用することに同意しこれを提供し、同日Y1クリニックにおいて採卵したAの卵子に受精させた上で受精卵(胚)の培養が行われ、平成26年4月15日にこの受精卵(胚)が冷凍保存されました。

XとAは平成26年4月12日に別居を開始しましたが、別居の条件としてAは不妊治療に協力することを提示していました。

平成27年4月22日、Aは「融解胚移植に関する同意書」をY1クリニックに提出し、4月15日冷凍保存していた受精卵(胚)の融解胚移植を受けました。この同意書には夫婦の氏名をそれぞれ記載する欄が設けられているところ、Aは妻氏名欄に自署し、夫氏名欄にAの自署と筆跡を変えてXの氏名を記載していました。

平成27年5月2日、AはY1クリニックにおいて妊娠の陽性判定を受け、同年6月6日にXに対し妊娠の事実を連絡し、後日、子Bを出産し、平成29年11月30日にBの親権者をAと定めてXA間で協議離婚が成立しました。

Xは、AならびにY1およびY2に対し自己決定権侵害の不法行為に基づく損害賠償請求訴訟を提起し、平成27年4月22日の移植時には生殖医療を受ける意思がなかったのにY1らはXの意思確認を怠ったと主張しました。

裁判所は、Xが自署した同意書には実施前に取りやめたくなった場合には同意書を取り下げることができると明確に記載されていたところ、Xが平成27年4月22日の移植以前にはY1らに対し同意を撤回するとの意思表示をしていないことをから、Y1らは胚移植の同意を含むこれまでに提出された同意書に顕れたXの同意に基づき本件移植を実施したものと認められるとし、4月22日に提出された同意書のXの署名がその体裁に照らして従前のXの署名と異なることが容易に判明するものではなく、本件同意書は日本産科婦人科学会の見解に沿った書式や作成方法であるうえ、同見解において同意書の署名以外に本人に直接電話をしてその同意を確認することまでは推奨していないから、Y1らが移植前にXに同意の真正を確認しなかった取扱いが不妊治療についての医療水準として不相当なものとはいえないとして、Y1がXから直接同意書を取得していなかったり、凍結保存期間継続依頼書を保存期間経過の直前に提出したりといったXの同意を得られているか疑うべき事情としてXが主張する事情を考慮しても、Y1らにXの意思を直接確認すべきであったのにこれを怠った過失は認められないとしてXの請求を棄却しました。

3 まとめ

生殖医療も医療行為である以上、実施時の医療水準に従ったものが求められます。上記のいずれの裁判例も実施時の医療水準の判断要素として日本産科婦人科学会の見解を援用し、学会の見解から導かれる医療水準を満たしていたことから医療機関に過失なしとして不法行為責任が否定されたものですが、社会や国民意識の変化等により学会の見解がより厳格な調査、同意確認を要求するようになれば、これに合わせて求められる医療水準も変化することになるので、今後の動向を注視していかなければなりません。

福島県病院協会会報2021年5月号掲載